「あ゛ー……」
朝7時30分。目覚ましの音で起きた俺は、寝ぼけたまま声を発する。ここ数日、これが俺のルーティンになっていた。
休学したあたりから俺を悩ませている声の掠れと空咳は、日を重ねるごとに悪化していた。風邪薬を飲んだり、風呂場で喉を温めたり、ばーちゃんに作ってもらった生姜湯を飲んだり、キタカミ産のみついりりんごを食べたりと、風邪に効きそうなことは一通り試したが、一向に良くなる気配はない。
アオイに黙って休学してしまったものだから、落ち着いたらねーちゃんからアオイへ通話をかけてもらえるように頼もうかと思っていた。だが、この声では通話もままならないし、こんな声を彼女に聞かれるのは恥ずかしい。
憂鬱な気持ちで体を起こしてリビングへ向かうと、すでにばーちゃんが朝食を作ってくれていた。
「おはよう、スグリ」
「おはよ」
台所で忙しなく動いているばーちゃんに挨拶した直後、けほっ、と小さく咳が出る。最近はこうして声と一緒に咳が出ることが多く、人との会話をためらってしまう。休学中で静かに過ごすことが多いのが不幸中の幸いだ。ただこの不調がいつまでも治らなかったらどうしよう? 復学の日は決まっているのだし、なんとかそれまでには治ってもらわないと困る。
風邪といっても熱や鼻水はないし、食欲もある。俺はテーブルの上に用意された朝食を食べ始めた。いただきます、は心の中で言った。
「ふぁ~……おはよう」
「んん゛っ」
欠伸をしながらリビングに入ってきたねーちゃんに、挨拶を返そうとしたら、変な声が出てしまった。
「あんた、まだ喉良くならないの? 病院は行った?」
うまく声を出せず、首肯する。数日前にキタカミ唯一の診療所に足を運んだが、特に異常はないと診断されてしまった。現に声が掠れているんだし異常がないわけないだろ、と思ったが、声を出したくないのでそのまま帰ってきてしまった。結局そのまま良くならず、今に至るというわけだ。
「大きい病院に行った方がいいのかもしれないねぇ」
ばーちゃんがリビングに緑茶を運びながら、心配そうに眉をひそめる。キタカミの外の病院に行こうしたら、バスで30分はかかる。喉の不調に困ってはいるが、正直面倒くさい。
朝食を食べ終えた俺は、お茶をすすりながら溜息をつく。その息は手元の湯呑みの中へ落ちていくようだった。
さて、今日は一日どう過ごそう? 自室(と言ってもねーちゃんと共同の部屋だ)の勉強机に足を乗せ、背中を椅子の背もたれに預けてゆらゆら揺れながら考える。変わり映えしない景色の中を散歩するのも飽きたし、勉強道具は手元にあるけれど、しばらくは勉強から離れてゆっくりしたい。しばらく迷った結果、ポケモンたちを洗ってやるのがいいかもしれない、と思い至った。
ぴょんと椅子から飛び降り、外に出る支度をする。モンスターボールを携えて玄関を出ようとしたら、ねーちゃんに呼び止められた。
「ちょっとあんた、どこ行くの? 外に出るなら行き先を言っておきなさいよ」
ねーちゃんはつっけんどんに見えて、意外と過保護だ。それが疎ましくて口論になることもあるけれど、今の喉の調子ではそれすらもしたくない。これが姉という生き物なのだろう、と思うことにしている。
「ポケモンっこ、洗うだけだ」
かろうじて絞り出した声はカスカスでまったく通らなかった。やっぱりどんどんひどくなっている気がする。
ポケモンたちを洗い終えた俺は、暇つぶしがてら特に目的もなく道を下っていく。ねーちゃんにはポケモンを洗うだけ、と言ったからバレたらきっとどやされるだろう。そう遠くへ行くわけでもあるまいに。
公民館の前を通り過ぎて、何かおもしろいものはないかと桃沢商店を覗く。ここの品揃えは昔から全然変わらないしそんなものはないか、と諦めかけた瞬間、普段だったら目に留まらないであろうモノを見つけた。
「すみません、けほっ、これください」
家に帰った俺は、さっそくそれを持って自室に引きこもる。俺が買ったのはシンプルなレターセットだ。アオイと通話ができないのであれば、手紙を書けばいい。どうしてこんな簡単なことに今まで気が付かなかったんだろう。手紙なんてほとんど書いたことがないから書き方も分からないけれど、とにかく一生懸命に今の思いを込めてしたためよう、とペンを執った。
ところが、お昼過ぎになっても俺は手紙を書き終えられないでいた。書きたいことは山ほどあれど、いや、山ほどあるからこそ、どうやって文章にまとめたらいいかが分からないのだ。桃沢商店でレターセットを見つけたときはこれだ! と気分が高まったが、今ではそのテンションも落ち、そもそもいきなり手紙なんて送って引かれないだろうか? なんて余計な考えまで浮かぶようになってしまった。
「スグー、お昼できてるわよ」
ねーちゃんが呼ぶ声が聞こえる。俺はのろのろと立ち上がってリビングへ赴いた。
「そういえば、スグにこれあげる」
ねーちゃんがもぐもぐと白飯をほおばりながら俺に細長い袋を差し出す。これは……何かのチケット? 俺が訳がわからない、という顔をしているとねーちゃんが言葉を続ける。
「あんた一心不乱に手紙書いてたけど、どうせアオイ宛でしょ? じーちゃんにこのチケットもらっておいたから、一緒に入れて送りなさい」
見られていた。恥ずかしさからひったくるように袋を受け取る。何その態度、手ぇ出るよ!? というねーちゃんの声にも構わず、俺は袋を開け、中身をまじまじと見る。キタカミの里までのチケットが4枚も入っていた。
俺は急いで昼食をかきこみ、再び部屋へと舞い戻った。
チケットを送るという口実ができてしまえば、不思議とペンはすらすらと進んだ。やっとの思いで書き上げた手紙を、変なところはないかと何度も読み返す。十数回読み返してようやく納得がいった。便箋を丁寧に折り畳み、チケットとともに封筒に入れ、封をする。糊付けしただけじゃなんだか寂しくて、以前オモテ祭りでもらったカジッチュのシールを貼った。
「手紙さ出してくる」
どうにもならない声でねーちゃんに伝え、俺は近所のポストへと向かった。手紙を入れてパタン、とポストの口が閉まれば、あぁ、本当に送ってしまったんだ、と妙な高揚感に包まれる。スキップしたくなるような気持ちを抑えて、早足で家へと戻った。
手紙を送り終えて、再びやることがなくなった俺は、自室で西日に射されながら喉の調子について思案する。もしこのままずっと治らなかったらどうしよう? やはり大きい病院に連れて行ってもらったほうがいいのだろうか。憂鬱な気持ちになりながら喉を抑えると、その手に違和感があった。試しにそのまま「あー」と喋ってみる。最近までなかった首の出っ張りが動くのがはっきりと分かった。
保健の授業で習ったことがある。これはきっと――声変わりだ。
手紙を出してから数週間ののち、アオイと一緒にネモさん、ペパーさん、ボタンさんというお友達が連れ立ってやってきた。この頃には、俺の喉は喋るのが苦ではないくらいには落ち着いていた。まだ少し声が変ではあるけれど、誰も俺の声のおかしさに触れることはなく、それがとてもありがたかった。ちょうどみんながやってきたタイミングでねーちゃんや村の人たちがおかしくなってしまっていたので、それどころじゃなかったというのが正しいのかもしれない。ネモさんたちも途中から同じような状態になってしまったけれど、アオイと協力してなんとかみんなを元に戻すことに成功した。
みんながおかしくなってしまった元凶は、モモワロウというポケモンだった。そいつを弱らせるべくアオイがオーガポンを繰り出した瞬間、彼女が「がお゛ぽう゛っ!!」と聞いたことがないような声を出したときには、こんな声も出せるんか、と心底驚いた。低い彼女の声に、俺も声変わりが終わればこんな迫力のある声が出せるようになるだろうか、なんて思った。
アオイたちがキタカミの里から去っていってから数週間、あっという間に復学の日がやってきた。あの後、喉の調子が悪くなったり良くなったりを繰り返しながら、俺の声は低く落ち着いたものへと変化していった。今ではすっかり喉の調子も良くなり、発声にも支障がない。ただ、声変わり前の俺しか知らない学園の人たちに、この声を聞かれるのは少し恥ずかしいかもしれない。
学園のエントランスロビーに向かうと、そこにはなぜかアオイが立っていて、こちらに向かってぶんぶんと手を振っていた。
「スグリ、おかえり!」
わざわざ俺を出迎えるためにパルデアからこちらに来てくれたのだろうか、などとうぬぼれたことを考えてしまう。俺はたまらず駆け出して、アオイへと近付く。声のことなんか気にせず、衝動的に話しかける。
「アオイ! どうしてここに?」
「スグリが復学するって聞いて、いても立ってもいられずに来ちゃった。め、迷惑だったかな」
その言葉に、思いきりかぶりを振って答える。
「迷惑なわけあるもんか! むしろ、わや嬉しい」
えへへ、と笑い合う。あぁ、やっぱり俺はアオイのことが好きだ。本当は友達なんかじゃもう我慢ならないが、あの日友達になってくれる? と言ってしまった以上、こんな気持ちは隠さなければならない。
「スグリ、なんか雰囲気変わったね?」
「いや……? 休学前と変わらない格好だと思うけど」
自分で気付いてないだけで背でも伸びたか? と思った瞬間、彼女があっ、と声をあげた。
「雰囲気が変わったの、声だ。声変わりしたんだ!」
「あー、キタカミさ来たときに気付かなかった?」
「ちょっと声の感じが違うな、とは思ってたけど、あのときは風邪かなって」
確かにちょっと掠れてたもんな、と話しながら、エントランスロビーの改札を通る。これから寮の部屋に荷物を置きに行く予定だったのだが、もう少しアオイと話していたい。予定を変更して、先にリーグ部の部室へ向かうことにした。
今は授業中だからか、部室には誰もいないようだった。ホワイトボードに描かれている落書きも休学前のままで、なんだか懐かしい気持ちになる。アオイと隣り合って椅子に腰かけると、急に部室に2人きりということを意識して、どきどきしてしまう。
「スグリ、」
「何?」
俺が声を発するなり、小さく身を引くアオイ。彼女の方から話しかけてきたというのにどうしたんだろうか。
「アオイ、逃げないで。今何か話しかけたべ」
「スグリの、その、声」
「声?」
「意識しちゃったら、その、か……かっこよくて」
恥ずかしいよ~、と俺から顔を背けて手でぱたぱたと仰ぐふりをするアオイ。え、今アオイにかっこいいって言われた? この声が? にわかに信じられないが、それならば、とそっと彼女の耳に近付く。部屋に2人きりだという現実、そして思いがけないタイミングで好きな子に会えたという興奮が、俺を大胆にさせる。
「アオイ♡」
彼女の耳元で囁く。思った以上に甘い声になってしまって、少し恥ずかしい。アオイは驚いたようにひゃ、と小さく声をあげながらこちらへ振り向く。彼女の目は見たことがないほど、どろどろにとろけていた。顔と顔が、鼻先が触れ合わんばかりの距離まで近付く。しばらく時が止まったかのように見つめ合っていたが、だんだんと顔が熱くなって、俺は体ごとアオイと距離を取った。
「ご、ごめん……ふざけすぎた」
「もっと」
「え?」
「もっとスグリの声、聞かせてほしい」
潤んだ目でこちらを見つめるアオイ。これは俺に都合のいい夢なんじゃないかとすら思えてくる。もしそうなんだとしたら、いつまでも覚めないでほしい。俺は興奮が抑えられなくなって再び彼女の耳に近付き、囁く。
「他の男ともこんな風に近付いて話すの?」
「あっ……そんなことしない、スグリ、だけだよ」
「ふーん、俺だけなんだ♡」
「うん。だって私スグリが……いや、えっと、忘れて」
「俺が、何?」
これは、もしかしてアオイも俺と同じ気持ちでいてくれているのだろうか。さっきから早くなっている心臓が、さらに早鐘を打つ。どうか誤魔化さずに、その先をちゃんと聞かせてほしい。
「スグリが、その、好き、なの……友達じゃない方の、意味で」
観念した、というように、消え入るような声で呟いてうつむくアオイ。まさか、彼女へ抱いていた想いが本当に実るなんて想像もしていなかった。胸がいっぱいになって、もう一度囁く。
「俺も、アオイが好きだ」
その瞬間、彼女が顔を上げて再びこちらを向く。信じられない、とでも言いたげに目を見開いている彼女の顔が至近距離に迫る。今度はその唇に、そっと触れるだけの口づけを落とす。
「俺と付き合ってくれる?」
「ひゃい……」
おかしな返答に、つい吹き出してしまう。アオイもつられるように笑って、2人の間に走っていた緊張がゆるむ。俺は椅子に座り直し、つとめて真面目なトーンで話す。
「俺、アオイのこと一生大事にするから」
うん、とうなずくアオイの目には、涙が浮かんでいた。俺はそれを親指で拭い、もう一度キスをした。
授業の終了を知らせる鐘の音ではっと我に返って恥ずかしくなった俺は、慌てて寮の自室へやってきた。思い返してみれば、完全に順序を間違えていないか? まだ手すら繋いでないのにキスをしてしまうなんて。しかも耳元で囁くという、大胆なことをしてしまうなんて! でもあのときのアオイ、目がとろんとしていてわやえっちだったな……。俺は自分の中心部が疼きそうになるのを感じながらも、雑念を振り払うように荷物の整理を始める。後で部屋の張り紙をはがしたり、壁にはみ出た書き込みも消さないとな、なんて考えていたら、部屋をノックする音が聞こえた。
「スグリ、いる? アオイです」
なんでアオイが男子寮に来てるんだ!? と急いでドアを開ける。彼女はばつが悪そうに立っていた。
「き、来ちゃった」
「ばっ……男子寮なんかにそうホイホイ来るもんじゃね!」
わざわざここまで来たということは何か急ぎの話でもあるんだろう。とりあえず彼女を部屋へ招き入れ、ベッドへ座らせる。
「サイコソーダでいい?……つっても、今はそれしかないけど」
「う、うん。ありがとう」
隣に座り、サイコソーダの瓶を手渡すが、彼女が口を付ける様子はない。ずっと下を向いたまま、自分の三つ編みの先をいじっている。
さっき恋人になったばかりの女の子と、俺の部屋に2人きり。さっきよりも大胆なことができてしまいそうでまずい。理性よもってくれ、と思いながら彼女に声をかける。
「部屋まで来るなんてどした? 何か言い忘れたことでもあったか?」
「……あのね」
彼女が言いづらそうに口を開く。やっぱり付き合うのはナシで! なんて言われるんじゃないだろうか、なんて想像してしまい、ちょっと怖くなる。
「スグリに、さっきの、もっとしてほしくて」
「『さっきの』って?」
「み、耳元で喋るやつ……」
カジッチュのように真っ赤な顔で、アオイが声を振り絞る。俺の中の意地悪な部分が、むくむくと頭をもたげる。お望み通り、耳元で囁いてやろう。
「へぇ、わざわざそのために俺の部屋まで来ちゃったんだ」
「ひゃ……う、うん」
「アオイって、実は悪い子なんだな♡」
「スグリと一緒にいられるなら、悪い子でもいい、よ」
アオイは無意識でこんな言葉を吐いているのだろうか。だとしたらポケモンバトルだけでなく、男の理性を失わせるという意味でも末恐ろしい。もう順序なんて気にしていられない。理性なんてどうでもいい。俺は彼女の両肩に手をかけて、ゆっくりとベッドに押し倒す。上から覆いかぶさって、彼女の耳に顔を寄せた。
「男の部屋さ来たんだ。もっと悪いこと、しような?」
そう言って俺は彼女の耳を食んだ。あとはもう、2人の間に意味のある言葉などなかった。