あたらしい家族

 イッシュ地方の玄関とも称される港町・ホドモエシティで生まれ育ったわたしが初めてポケモンを捕まえたのは、町のはずれにある草むらだった。ママからは「あなたにポケモンはまだ早いわよ」と言われてモンスターボールを買ってもらえなかったが、そう言われれば言われるほど欲しくなってしまうというもの。あるうららかな晴天の日、パパが外で仕事、ママがお昼寝をしているタイミングで、パパの書斎にこっそり忍び込み、空のモンスターボールをひとつだけ手に取って部屋を出た。ポケモンは一発で捕まらないこともよくあると聞くし、これで捕まえられなかったらそのときは素直に諦めるから見逃してほしい、と心の中で小さく願った。何かを泥棒するなんて初めてのことで罪悪感はあったけれど、それよりもポケモンが欲しい気持ちが勝ってしまったのだ。

 わたしは出かけるときにいつも持っているお気に入りのポシェットにボールを入れて、こっそりと家を出た。空とはいえ、自分がボールを持っていることで早くもトレーナーになった心地になり、喜び勇んで街路を歩く。全能感に駆られたわたしは何でもできる気がして、船に載せて送り出す荷物、あるいはやってくる荷物が収まっているという、コンテナが立ち並ぶエリアへと足を踏み入れた。このあたりは危ないから、と普段は入ることを禁じられているのだ。建物の脇にポケモンがいそうな草むらを見つけ、そろそろと分け入ってみる。幼いわたしにとっては、自分より背が高い草むらの中を前に進むのも一苦労。こんなところでもし怖いポケモンに出会ったら、危険な目に遭うこともあるかもしれない。だが、そのときのために家からピッピにんぎょうも持ってきたから準備は万端だ。

 そのとき、ガラスビーズを入れた瓶を振ったかのような、涼やかな鳴き声が聞こえた。声の主はホイップクリームのようにふんわりとした頭と、ステンドグラスのように水色に透き通った手と身体を持つポケモンだった。名前は分からないけれど、わたしはその子をすぐに気に入ってしまった。人間じゃなくても、そして性別が分からなくても、一目惚れすることがあるのだとそのとき知った。その子は笑顔で私の周りをぴょんぴょんと飛び回っていて、敵意は感じられない。わたしはポシェットからボールを取り出して、その子に向かってそっと投げた。ボールはその子を吸い込んで閉じ込め、すとんと地面に落ちる。しばらくゆらゆらと揺れる様子を、固唾をのんで見守る。カチッと音を立ててロックされたとき、わたしは思わず快哉を叫んだ。やった、初めてのポケモンだ! 天にも昇る心地でボールを拾い上げ、あまりの喜びにボールにほおずりをしてしまう。そのとき、草むらの奥から低い唸り声が聞こえた。ガサガサと音を立てながらその声が近付いてくると思ったら、あっという間にわたしに飛びかかってきた。

「きゃっ」

 胴体に黒い毛の生えたポケモンがわたしのすねを掴んで離さない。パパのムーランドに似ているが、それより身体も迫力も小さい。毛が長くて肌触りこそ気持ち良いが、このままでは動くことができない。これはまずいぞ、と本能的に感じ取り、こめかみに冷や汗が伝う。気が動転したわたしはピッピにんぎょうを持ってきたのも忘れ、必死に足をばたつかせて振り払おうとする。

「あっ、そうだ!」

 さっそく、さっき捕まえた子のデビュー戦をすればいいんだ! と天才的なひらめき(少なくともこのときはそう思っていた)を得たわたしは、ポシェットからボールを取り出して、足元のポケモンに向かって投げた。しゃらしゃらと心地いい鳴き声を上げながら、白くてふわふわしたポケモンが飛び出す。

「あっ、えっと、えーっと……」

 ボールからポケモンを出してはたと気づいた。わたしはバトルのやり方を知らない。正確には、バトルの流れはパパやママを見てなんとなく知っているものの、この子がどんなわざを覚えているかは知らないのだ。見た目からして、たぶんパパのゼブライカのように10まんボルトを放つことはできないだろうし、ママのドレディアのようにリーフストームも覚えないということはかろうじて分かるけれど。そうこうしている間に、すねを掴んでいたポケモンは、わたしの初めてのパートナーに狙いを変えたようだった。

「だめっ!」

 とっさにポケモンをかばおうとしたが、それより早く目の前に濃い霧が現れた。視界が真っ白になって、あのもふもふのポケモンの姿が見えなくなる。

「これ、きみがやったの?」

 パートナーに尋ねれば、そうだと言うように笑顔で鳴いた。こんなに小さくてかわいいけれど、やはりこれまで野生で生きてきただけあって、サバイバル能力に長けているらしい。

「すごーい! すごいよ!」

 こっちだよ、と先導するようなパートナーに着いていき、無事に草むらから抜け出す。ふぅ、と息をついたのも束の間、わたしの身体は草で擦れて切り傷だらけになっていた。首から、腕から、ふくらはぎから、じわりと血が滲んでぴりぴりとした痛みが走る。

「君、そこで何してるの。危ないよ!」

 しかも、大人に見つかってしまった。服装を見るに、ここのコンテナで働いている作業員のお兄さんのようだ。お兄さんは運んでいた段ボール箱を傍らに置き、わたしの目線の高さに合わせてかがんでくれる。

「どうしてこんなところにいるの」

「ポケモンを、つかまえたくて」

 これはきっと、お兄さんに叱られる。そしてパパとママに連絡が行って、家に帰ってからもものすごい怒られるんだ。それからこのポケモンを逃がすようにと言われるかもしれない。きまりが悪くてうつむいたが、次に飛んできたお兄さんの声色は予想外に優しいものだった。

「お兄さんも君くらいの年のとき、ポケモンが欲しかったなぁ。それで、君はこのバニプッチを捕まえたんだね」

「……ばにぷっち? この子、ばにぷっちって言うの?」

「それも知らなかったのかい?」

 わたしのそばでぽてぽてと身を揺らすバニプッチは、名前を呼ばれてはしゃいでいるようだった。わたしもこれからは名前をいっぱい呼んであげようと決めた。逃がしてきなさい、と怒られなければだけど。

 もうこんなところにひとりで来ちゃだめだよ、と言う優しいお兄さんと別れ、バニプッチをボールに入れて家路をたどる。行きの愉快な気持ちはどこへやら、今は傷が痛んで思わず顔をしかめてしまう。それに、この子は絶対にパパとママに見つからないようにしないといけない。遠くに家が見えてくる頃、わたしはボールをポシェットのいちばん奥にしまいこんだ。

 家に帰れば案の定、身体のあちこちに傷を作ってしまったことをママに見咎められた。ガーゼで消毒液を傷口に塗ってもらいながら、何をしていたらこんなにケガをするの、と怒られる。それでも、わたしは絶対に口を割らない。嘘を並べる気はないが、正直に言ったらもっと怒られることが目に見えているから、黙っているのが得策だと判断したのだ。

「いつまでもそうやって言わないなら、しばらくおやつは抜きよ」

「うー……それはやだ……」

 いつもおやつに出てくる、パッケージにタブンネが描かれたクッキーはわたしの大好物。しばらくそれが食べられないというのは耐えがたい。それでもクッキーとバニプッチを天秤にかけたとき、皿はバニプッチの方に傾く。どうしようかと考えていたとき、カンの良いママはずばり言い当てる。

「まさか、勝手にポケモンを捕まえに行ったんじゃないでしょうね」

 嘘をつくのが苦手なわたしはその言葉にひるんでしまう。ママと目を合わせないまま小さい声で「ちがうよ」とかろうじて反論したが、もうそんな言葉に意味がないことは自分でも分かっていた。

「それなら、いつも持っているバッグの中を見せなさい」

 そうまで言われたらとうとうごまかせない。わたしは最後のばんそうこうを貼ってもらったあと、観念してポシェットを差し出す。それを受け取ったママは、ダイニングテーブルの上にひとつずつ中身を取り出していく。財布、ハンカチ、ポーチ、髪留め、家のカギ。ここまではよかった。そして最後にモンスターボールがことりと置かれた瞬間、落ちてくる雷を覚悟してぎゅっと目をつぶる。

「……やっぱりね、そんなことだろうと思ったのよ」

「え?」

 ママは困ったような顔をしながらも、どこか嬉しそうにも見えた。どうして怒らないんだろう、とまるで怒られることを期待しているかのような考えすら頭に浮かぶ。

「ポケモン、出してみなさい」

 わたしは戸惑いつつも、言われるがままボールを放り投げる。バニプッチが飛び出して、澄んだ鳴き声を上げながらわたしの足下でくるくると回ってみせる。

「あら、バニプッチ。かわいいじゃない。しかももうあなたに懐いてるのね」

 結局、ママはわたしがポケモンを捕まえに行ったことに対して怒ることはなかった。バニプッチを新しい家族として迎え入れてくれて、ポケモンフードの用意も約束してくれた。時間のあるときに、ポケモンの洗い方や毛づくろいの方法も教えてくれるらしい(バニプッチには毛はないけれど)。

「パパにはママから言っておくから、安心しなさい」

「ありがとう、ママ!」

 バニプッチを逃がしてきなさい、なんて言われなくてよかった。わたしの初めてのパートナーを受け入れてくれたことに胸がいっぱいになって、思わず抱き着く。ママはわたしを抱き返しながら、娘の成長をこんなふうに感じることになるなんてね、とぽつりと零していた。当時は意味が分からなかったけれど、ママはママで感慨に浸っていたのだと、少しだけ成長した今ならなんとなく分かる。バニプッチはわたしたちを見上げながら、小さな手をぱたぱたと動かして喜んでいるようだった。家族の幸せな思い出にこれからはバニプッチも加わっていくのだと思うと、嬉しくて嬉しくて、ママを抱きしめる手に一層力がこもった。

 それはそれとして、パパの部屋からボールを盗んだことと、バニプッチが捕まえられる草むら、イコール危ないエリアに立ち入ったことに対しては、パパとママの両方からきっちり大目玉を食らったのは、当たり前のことだった。

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