森の呪いは恋の呪い

 まるで「もりののろい」をかけられたようだった。このわざを受けたポケモンにはくさタイプが追加されるけれど、まさに私もそう。だって、普通の人間が花を吐くなんて信じられる? 私は未だに信じられない。テーブルシティを行き交う多くの人の目の前で派手に花を吐き、たまたまその瞬間を見ていたミモザ先生にあわてて病院へ連れて来られ、ドラパルトもびっくりの息もつかせぬスピードで入院することに。あっという間に起こったできごとに着いていけずにいたけれど、いつ退院できるかわからないと聞いて、ようやく私はことの重大さを理解した。病気が完全に治癒しない限り、もう一生ここから出られない可能性だってある。初めは絶望したけれど、日が経つにつれてだんだんと諦めもついてきた。だから手持ちのポケモンたちは、ほとんどポケモンセンターや、大切な仲間たちに預けてしまった。

 コライドンはペパーが責任をもって面倒を見ると言ってくれた。きっと毎日おいしいサンドイッチをごちそうになれて、ご満悦に違いない。テラパゴスは、ネモに。変わったポケモンだけれど、彼女ならうまく手なずけてくれると確信できる。主に学校最強大会で多大なる活躍をしてくれたニンフィアは、ボタンのもとへ。すでにニンフィアを育てていたはずだけれど、ちゃんと仲間に入れてもらえているかな。スター団を率いていたボタンのことだから、大丈夫だよね。

 こうして手元にいるのは、マスカーニャと、オーガポンだけになった。くさタイプの彼女らは、不思議と病気の影響を受けないらしい。「キノコのほうし」の効果がないようなものだろうか。マスカーニャにいたっては、私が花を吐く様子を手品か何かだと思っているようだ。確かにこれも「トリックフラワー」と言えるのかもしれない、なんてのんきなことを考える。今も私に張り合うようにマジックを見せてくれているから、退屈な入院生活もいくらかマシになっていた。

「アオイさん、そろそろ消灯です。お具合はどうですか?」

「相変わらず、花が出てきてしまう以外は元気です」

「その症状がなくならないのが困りものなんですけど……ひとまず大丈夫そうですね」

 去ろうとする看護師さんを、はっとして呼び止める。せっかく心をこめてしたためたこれを、忘れてしまってはいけない。

「あの! この手紙、もし、私の容態が危なくなったら出してもらえますか」

「手紙?」

「はい。大切な人に向けた遺……手紙なんです」

 懸命に治療にあたってくれている看護師さんに「遺書」と言うのは失礼な気がして、言葉を飲み込む。こんな手紙を出したがる患者さんがそういないのか、不思議そうな顔をしていたけれど、最終的にはにっこりと笑って、大事そうに手元のファイルにしまう様子が見えたから安心だ。

 夜の静寂に包まれていると、つい余計なことばかり考えてしまう。ポケモン。家族。友達。そして――想い人のこと。想えば想うほど、喉が苦しくなる。花がせり上がってくるのだ。今夜ベッドの脇のバケツに吐いた花びらは、紫色がやけに多かった。

 ただ、絶句。最近学園に来ないと思っていたアオイが、死を覚悟したうえで自分に手紙を送ったことを、スグリは受け止めきれなかった。それと同時に、腹が立ってもいた。せっかく治せる方法に対して、「自分には無理だと思ってしまいました」とはなにごとか、と。あのアオイでも諦めたくなるくらい、絶望的な方法なのかもしれない。理解を示したい一方で、最後まで望みを捨てないでいてほしいとも思ってしまった。しかし、これがアオイを失いたくないがためのエゴでしかないことも、スグリは十分に認識していた。だからこそ怒りのやり場がない。便箋を握った拳には自然と力がこもり、消えないしわが入る。スグリはアオイからもらったものならすべて大切にしたかったし、実際そうしてきた。けれど、これだけは。アオイからの最後のメッセージなのかもしれないと思っても、大事にできそうになかった。

 手紙をくしゃくしゃに抱えたまま、スグリはリーグ部の部室へと駆けた。パソコンの前に陣取り、花吐き病なるものについて調べる。正式名称は、嘔吐中枢花被性疾患。昔から、潜伏と流行を繰り返してきた病気。アオイは手紙の中で「とてもめずらしい病気」と書いていたから、近年ではあまり確認されていないのかもしれない。この病にかかった人が吐き出した花に接触すると、感染する。症状は、口から花を吐き出すようになる、ただそれのみ。これだけ? と思ってしまうほど、症状についてはあっさりとしか触れられていなかった。とてもじゃないが、死に至るような病気だとはスグリには思えなかった。もしかして、花が喉につかえて窒息するとか? なんて思いながら解説サイトを読み進めていれば、次の行でマウスを動かしていた手が止まる。

「完治させる唯一の方法は、想い人と両思いになること」

 アオイの想い人が誰なのかはわからない。でも、俺なら。アオイが俺を想っていなかったとしても、もし一瞬でも想ってくれたなら、すぐにでも治してやれるのに。

 そう考えたら、いてもたってもいられなかった。スマホロトムを買うためにコツコツ貯めていたお金を切り崩し、ネットで航空券のチケットを手に入れる。さっそく、明朝いちばんのフライトでパルデアへ発つ。荷造りも何もいらない。着の身着のまま、アオイと会うためだけに飛ぶ。あんな手紙をもらったあとだから、もうアオイは亡骸になってしまっているかもしれない。信じたくはないけれど。仮にそうだったとしても、このままひと目見ることさえできずに一生のお別れだなんて、耐えられなかった。

 ハッコウシティの空港から、そらをとぶタクシーを呼ぶ。できるだけ急いで、と封筒に書かれていた病院の住所を指定するが、スグリにはイキリンコたちがゆったり飛んでいるようにしか思えなかった。はやる気持ちに速度が追いつかなくてもどかしい。土地勘がない地方で迷ってはいけないと思ってタクシーを呼んだけれど、こんなことならカイリューでひとっ飛びしてしまえばよかったかもしれない。自分の選択ミスにいらだって爪をがり、と噛んでいたら、ようやく高度が下がり始めた。
 着陸してドアが開いたとたん、スグリはわき目も振らずに走る。走る。足がもつれて転びそうになっても、関係ない。今はただ、アオイに会いたい。顔が見たい。この想いを伝えたい。アオイと両想いになれるなんて、確信を持っているわけじゃない。でも、あんな手紙をくれたんだ。アオイを治せるのが自分じゃないとしても、一縷の望みにかけるくらい、許されるだろう? と。

「あの、一〇一九号室のアオイさんに面会を」

「事前のお約束は?」

「ない、です……。けど、遺書みたいな手紙をもらったんです! アオイは生きてますよね!?」

 猛然とした問いかけに、ロビーにいる人がみなスグリの方を振り向く。その剣幕はかつて暴君と化していた頃と比べても、あまりに強かった。受付の職員も思わず気圧されたものの、きっぱりと言い切った。

「……お約束がない面会は、一律でお断りしております」

「っ、わかりました」

 面会ができない理由が「お約束がない」からならば、少なくとも生きてはいるのだろう。そう判断したスグリは、その場にへたり込んでしまいたい気持ちを抑え、おぼつかない足取りでふらふらと外に出る。予約が必要だなんて、まったく知らなかった。幸いにも、これまで誰かを病院まで見舞いに行ったことなんてなかったのだ。必死になってかいた汗が、風で冷える。寒さを覚えたスグリは、目についた自販機であたたかい飲み物を買って、ベンチに腰かけた。キャップを外して流し込めば、いつの間にか渇いていたらしい喉に、ぐんぐんと染み渡っていく。あまりの勢いに少し咽せたが、スグリからは何の花も生まれなかった。

「えっ!? どうして……」

 深いため息をついたスグリの耳朶を、突如、か細い声が打った。それは風の音に紛れてしまいそうなくらいひそやかだったけれど、聞き逃すはずも、間違えるはずもなかった。もう二度と聞くことが叶わないと思っていた、愛しい声。反射的に立ち上がって辺りを見回したスグリは、十数メートル先にマスカーニャとオーガポン、そしてその間に緑色の病衣に身を包んだアオイがたたずんでいるのを見つけた。色だけ見ればあの日のじんべえ姿みたいだ、と見惚れた。けれど、すぐにそれよりもずっとくたびれていることに気づいて、記憶の中の溌剌とした姿とのギャップに戸惑う。だがどんなに様子が変わろうとも、もう会うことが叶わないと思っていた、大好きな人であるという事実は揺るがない。一目散にスグリは駆け出し、アオイの胸に飛び込んだ。都合のいい夢でも見ているんじゃないかと疑いたくなったが、熱も、匂いも、感触も――五感で感じ取れるすべてが、確かに実体のある人間のものだった。アオイのポケモンたちは一瞬ひるんだが、ダイブしてきた者の正体が、主人が想いを寄せるトレーナーだと理解して、目くばせし合った。バランスを崩して転びそうになったアオイの背を、スグリの大きな手が支える。まるでペアになってダンスでも踊っているかのような姿勢で視線を交わしたまま、二人は固まった。


「どうして、スグリがここに……」

「それはこっちのセリフだべ……。さっき、面会さ断られたのに」

「……マスカーニャとオーガポンを洗って、病室に帰る途中なんだ」

「俺はアオイの手紙さ読んで……死んじまってるかと思ってたから……本当に、生きてて、よかった」

 スグリの瞳からこらえきれずに落ちた熱い雫が、アオイの頬を濡らしていく。だが、そんな再会を噛みしめる時間も束の間だった。

「看護師さんには、私が危なくなったら手紙を出して、ってお願いしたのにな」

 そう言うなり、よろめきながらうずくまったアオイは、手に持っていた大きな袋を口元に当てると、せきとともに大量の花びらを吐き出した。赤、黄色、オレンジ、白、青。フラベベの花のように色とりどりのそれは、ほどなくして袋をいっぱいに満たす。向こう側が透けるような薄い花弁がいくつも折り重なる様子は、本当にきれいだ、とスグリは茫然と思った。これが、病気なんかでなければ。

「っはぁ、ごめんね、びっくりしたでしょ」

「わかったうえで来てんだ。気にすることねぇべ」

「……ありがとう。最近、花を吐く量も頻度もどんどん増えてて、体力が落ちちゃってるんだ」

 眉を下げて笑みを作るアオイに、スグリの胸は締めつけられる。初めて見る花吐きの瞬間に驚きがなかったと言えば嘘になるが、だからこそ、決意が固まった。アオイをもう苦しませたくない。自分にそれができるのかはわからないけれど、少しでも可能性があるなら、賭けてみたかった。アオイが生きているうちに手紙が届いて、パルデアに来ることができて、面会を断られたにもかかわらず、偶然アオイに会うこともできた。もう一度くらい、奇跡が起こってくれたっていいじゃないか。スグリはそう祈りながら傍らにしゃがみ込み、アオイのあごをすくって視線を合わせる。一拍ののち、おびえた鳶色に告げた。

「俺、アオイが好きだ」

 息を吸う音がやけに大きく聞こえる。見開かれた目は、どこか熱っぽく潤んでいた。スグリは真剣なまなざしを崩さないまま、言葉を継ぐ。

「アオイの病気を治す方法さ、調べたんだ。そうしたら『想い人と両思いになること』って書いてあって……。俺じゃだめかもしんねっけど、どうしても我慢できなかったから、会いに来たんだ」

「だ、だめじゃないよ! だめじゃない、けど……」

「けど?」

 だめじゃない、とはすなわちどういうことか。スグリはその意味に気づき、身体中の血が沸き立つような喜びを覚えた。だがアオイの不安を払拭せず、それを表現することなどできるはずがなかった。

「私の病気を治そうとして、わざと言ってくれているんでしょ?」

 不自然に目を逸らすアオイに、スグリの心の奥底は、怒りとやるせなさでかっと燃え上がった。なんで、どうして、そんなことを?

「わざと言うためだけに、パルデアまではるばる来るわけねぇべ!」

「だって、信じらんないよ! こんな、都合のいいことがあるわけないもん!」

 今度はアオイが涙を流す番だった。大粒の雫が次から次へと溢れて、スグリの心の炎を静かに消していく。その間もアオイの口からははらはらと花びらがこぼれ落ちていた。風に飛ばされて誰かに触れてしまわないよう、アオイはしゃくり上げながらも口元に袋を当てる。通りすぎる人たちが何事かと二人をちらちらと見ていくが、嗚咽は止まらなかった。

「信じてくれねなら、信じさせてやっから」

 スグリはアオイの両頬にそっと手を添えて顔を上げさせると、そのまま強引に口づけた。二人の唇の間には、紫色の花びらが挟まる。アオイの泣き声はぴたりとやんだかわりに、声にならない叫びが漏れた。慌ててスグリの肩を押すが、力では敵うはずがなく、されるがままになる。やがてスグリは唇を離し、花びらをそっと摘まんで食んだ。

「スグリにもうつっちゃうよ。だめ、こんなことしちゃ……」

「アオイ、素直んなって」

 力強い言葉に、当惑した目元が静かに伏せられる。長いまつ毛の一本一本が光に濡れて、アオイの感情を縁取っていく。本当はもう、アオイの胸のうちからは想いが溢れて止まらなかった。それは口から現れる花よりも、ずっと。

「……私も、私もスグリが好きだから……もう一度、キスして?」

 二つの影が再び重なり合った刹那、テラスタルしたような百合が二輪、束になって落ちた。午後のうららかな陽射しに照らされて、いつまでも七色のきらめきを放ち続けていた。

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