「スグリって、本当に私のこと好きなのかな」
放課後のリーグ部の部室。机に突っ伏しながら独り言のようにこぼした先にいた相手は、カキツバタ先輩だった。スグリの人となりをよく知っていて、男心がわかる人。そう考えて吐き出してみたけれど、先輩は心底おもしろそうに声を上げて笑った。
「笑いごとじゃないんです!」
「そりゃあ悪かった。でもそれ、本気で言ってんのかぃ?」
「本気に決まってるじゃないですか」
先輩は私の言葉を聞きながら、手元のチョコ菓子の封を切る。青いパッケージはスグリの部屋の片隅に追いやられていたそれと同じものだと気づいて、胸の奥がわずかにきしむ。
「んで、キョーダイはなんでそんなふうに思ってんだ?」
「告白をしたのも、手を繋ぐのも、デートに誘うのも、キ、キスするのも、ぜんぶ私からだった、というか、いつまで経っても私からしかしないんです。『好き』とも言ってくれないし……」
あらためて口に出してみれば余計に愛されている自信がなくなってきて、つい唇を噛む。言葉はどんどん尻すぼみになって、終わりのほうはきっと先輩まで届いていなかっただろう。
スグリと恋人になったのは三ヶ月前。きっかけは、ある日の放課後、空き教室の隅で女の子に告白されているのを廊下から偶然見てしまったことだった。クラスでいちばんかわいいとみんなが噂する彼女の懸命な告白を、スグリは困ったような顔で「忘れらんねぇ人がいるんだ、ごめんな」と断っていた。忘れられない人なんて初耳だったけれど、負けず嫌いな私はむしろにそれに焚きつけられてしまった。数分後、何事もなかったかのように部室に現れたスグリを捕まえては廊下に引っ張り出して、「スグリの忘れられない人を上書きしてみせるから付き合って!」と、バトルでも仕掛けるかのように想いを告げてしまったのだ。スグリは虚を突かれたような顔をしていたけれど、何も言わずうなずいてくれた。
私はそこから恋人同士のお付き合いが始まったと考えていたけれど、最近では「ふいうち」を食らったから反射的に首を縦に振っただけなのかもしれない、と思い始めていた。ポケモン勝負だったら相手も攻撃技を出さないと失敗してしまうけれど、現実はそうではないと、この三ヶ月で身をもって知った。私の告白はあまりにも身勝手かつ強力で、「ふいうち」というよりは「しんそく」だったのかもしれない。
しかし、手を繋ぐのも、デート(という名のブルレク)も、キスも、拒まれたことは一度もない。かと言って、スグリから誘われもしないのだけれど。向こうから仕掛けられることがあるとすれば、たまのバトルのみ。初めは恋人らしい行為を受け入れてくれているだけでときめいたけれど、時間が経てばその感動も薄れてしまった。
たぶん、スグリは私を嫌ってはいない。だがそれは、好きとイコールで結べるものではないのだと、最近ようやくわかってきた。往生際が悪い私はそれを認めたくなくて、先輩にぼやいてみた次第だ。
「キョーダイが好きだから付き合っている、っていうのに嘘はないと思うぜ?」
そう言って頭の後ろで腕を組んだ先輩は、いつもの捉えどころのなさに拍車をかけるように、目だけが笑っていなかった。
「それとも、スグリのことを信じていないってか」
「信じてないってことはないんです。うーん、不安っていうか……」
何も本気でスグリの愛を疑っているわけではない。愛は愛でも、友愛の情であれば私たちの間には間違いなく存在している。ただ付き合っているんだから、別の形の愛が欲しいと欲張りたくもなってしまう。たった一言、「アオイが好きだ」と言ってくれれば、それでいいのに。
「そんじゃ、かわいい後輩カップルのためにオイラが一肌脱いでやりますかねぃ」
「え?」
「名付けて『しっとのほのお』大作戦!」
先輩が私のことを好いているというていで、スグリの前で私に言い寄ったり近づいたりして本心をあぶり出す――それが先輩の企みだった。確かにそれで嫉妬心を燃やすことができれば、スグリの愛情や独占欲を感じられるかもしれない。騙しているようで少し気が進まなかったけれど、他にこれといったアイデアも思い浮かばなかった。
「噂をすれば、ご本人様が来たみたいだぜ」
部室の入り口を見れば、ちょうどスグリが入ってくるところだった。汗をかいたのかタンクトップ姿で、首からはミロカロスが描かれたタオルを下げている。水もしたたるいい男、とはこのことか。無造作に結われたすみれ色の髪も、鋭さの中にひとさじの甘さを孕む眼光も、細いように見えて実はしっかり筋肉がついた腕も、私を惹きつけてやまない。見惚れていたら、向かいに座っていたはずの先輩がいつの間にか私の横に陣取って、寄り添うような姿勢になっていた。あ、もしかしてもう始まってる?
「キョーダイ、明日は一緒にランチでもどうだい?」
「……あっ、いいですね! たまには学園定食以外のメニューも食べてみたいなって思ってるんです」
「なら学園ピザでもシェアすっかい?」
いつもより少しばかり低い声で話しながら、じりじりとにじり寄ってくる先輩。普段だったら「近くないですか?」なんて言うところだけれど、これも作戦のうち。身を引かないまま、視線だけでスグリをちらりと見やれば、わずかに眉根を寄せているように見えた。ところが、表情がうかがえたのも一瞬。すぐに背を向けられてしまった。考えていたとおりだ。スグリは、私のことなんて。
「スグ、リ?」
「なに」
心ともなく呼んだ名前に返ってきたのは、チャンピオン時代のような、いつになく冷たい声だった。思わず身が縮こまり、視線が床に落ちる。
「スグリもお昼、一緒にどう、かなって」
「……明日の昼はポケモンっこの育成すっから」
「そっ、か」
沈黙が広がる。気まずさに逃げ出したくなり、窓の外を見やる。テラリウムドームの中には激しい雨が吹き付けているようで、まるで今のざわつく心のうちをそのまま描写しているかのようだった。
「んじゃ、キョーダイはオイラとサシで飯食おうぜぃ。積もる話もあっからよ」
「そう、ですね」
私が返事をするなり、スグリが小声で何かをつぶやいた気がしたが、たぶん私の思い込みだろう。焼きもちを焼いてほしいなんていう、浅ましい気持ちが引き起こした空耳に違いない。
ブルベリーグチャンピオンの座をアオイの手によって下ろされた俺は、少しの休学を挟んでふたたび学園に舞い戻った。その頃から、女子生徒からの熱いまなざしを感じることが多くなった。仮に強さだけを追い求めていたチャンピオン時代に同じ視線が向けられていたとて、まったく気にしていなかっただろうから、本当に急に熱視線を浴びることになったのかどうかは定かではない。とにかく、復学後の俺はそんな視線にあてられて、教室でもリーグ部でも、どことなく居心地の悪さを覚えることがあった。そしてその感覚は実際に間違っていなかったようで、たびたび女子生徒から告白されるようになった。当初はうまい断り文句を紡ぎ出すのに窮していたが、そんなときに脳裏をよぎるのははにかんだアオイの笑顔。初めは、彼女のたぐいまれなる強さに惹かれた。しかし、林間学校で一緒に過ごすうち、年相応の少女だと意識してしまう一面が見え隠れし、そのギャップにころっと落ちてしまった。オモテ祭りでりんごあめを奢ったのも、今思えば少しでもかっこいいところを見せたい思いもあったかもしれない。出会ったばかりの女の子にこんな恋心を抱くなんてちょっと、いやかなり気持ち悪いかも、と自覚していたから、この恋はずっと友情で覆い隠していこうと決めた。
だから、「スグリの忘れられない人を上書きしてみせるから付き合って!」というアオイのセリフの意味が、即座にはわからなかった。でもまっすぐに俺を射抜く瞳はかっと見開かれて潤み、頬には赤みが差していた。今まで俺に告白してきた誰よりも必死そうな、その気迫に気圧されて、俺は首肯することしかできなかった。
一目見たときから好きだったアオイが、俺の恋人に。夢のように幸せな反面、夢のように信じられなかった。事実なのだと飲み込めたのは、翌日、アオイが恥ずかしそうに声をかけてきたときだった。
それから三ヶ月。俺たちの関係は、アオイによって進められている。手を繋ぐのも、デートの誘いも、キスも、全部アオイからで、俺はそれをただ受け止めるのみ。情けないと思いつつも、どうしても気恥ずかしさと間の悪さから、俺からアクションを仕掛けられずにいた。スマホロトムがあれば通話したりメッセージを送ったりして二人きりでやり取りができたのだろうが、ない袖は振れない。そろそろどうにかしないと、愛想を尽かされるかも。不安を抱えながら部室に足を踏み入れた俺を待ち受けていたのは、カキツバタと仲睦まじく話しているアオイだった。その距離は妙に近いようでいら立ったが、当の本人は嫌がる素振りを見せていない。そういえば、つい先日特別講師として学園にやってきたペパーとも至近距離で接していたような気がする。ペパーとアオイはあくまで親友だと知っているし、そこに嘘はないと信じてはいるものの、それでも焦燥に駆られてしまった。オーガポンやテラパゴスのときにもうすうす感じていたが、俺はおそらく、人より嫉妬深い。
これ以上アオイとカキツバタを見ていてはダメだ。このみっともない感情に気づかれたくなくて、背を向ける。
「スグ、リ?」
「なに」
放たれた返事は、「ふぶき」のように冷たかった。違う、こんなふうにしゃべりたいわけじゃないのに。思いどおりにならないもどかしさから、拳を固く握りしめる。
「スグリもお昼、一緒にどう、かなって」
「……明日の昼はポケモンっこの育成すっから」
クラスの男子生徒と一週間後にバトルの約束があるから、嘘はついていない、けれど。俺はまた選択を誤ったのだと、言葉を発してから気づいてしまった。「やっぱり、俺も一緒にお昼食べていい?」と言い直そうとした瞬間、無情にもアオイはあきらめてしまった。
「そっ、か」
続くカキツバタののんきな声が遠くに聞こえる。積もる話ってなんだ。アオイは俺の彼女だって知っているはずなのに、二人きりでいようとするとは、どういう了見だ。悔しまぎれに出た言葉は、本心とは正反対だった。
「……勝手にすれば」
「昨日の様子でわかりましたよね? スグリは私のこと、何とも思っていないんですよ」
「オイラにゃそうは見えなかったけどねぃ」
昼休みの混み合った食堂で、先輩と私は学園ピザを頬張っていた。もちろん、そこにスグリの姿はない。きっと今はテラリウムドームを駆け回っているんだろうな。ため息をひとつついて、所在なげにピザのチーズをぐーんと伸ばしてみる。
「ま、即効性はないかもしんないが、いずれ効いてくるだろ。『ほろびのうた』みたいにな」
「……私、滅びたくないんですけど」
先輩はひょうひょうとした顔で、三切れ目のピザを口に放り込む。一切れ一切れが大きいから、二人がかりで食べてもなかなか減らない。さすがブルーベリー学園の学食メニューだ。
「ところでよ、キョーダイはなんでそんなにスグリに執着してんだ?」
ピザを飲み込んだ先輩は、突如ぞくりとするような目を向けてきた。伝説の鳥ポケモンが放つという「いてつくしせん」はこういう感じなのかも、なんて頭の端で考える。
「なんでって……いちおう、たぶん、まだ、スグリは彼氏ですから」
そう、スグリは私の彼氏なんだ。言葉にして自分に言い聞かせようとしてみても、予防線をいくつも張り巡らさないと安心できなくて、情けない。こんなとき、ポケモンバトルで決着がつけられたら楽だろうな。そんなネモみたいな発想が浮かんでしまう一方で、あんな告白をしてしまったのに、さらにバトル一辺倒のかわいげのない私を重ねたくはないとも思う。ぐるぐると考えていたら急に喉頸が締まった心地を覚えて、先輩から視線を逸らす。
「ふーん。じゃあオイラがキョーダイの悩みをパッと解決する素ん晴らしい秘策を教えるぜぃ」
「秘策?」
「別れちまえばいい」
何でもないように言ってのけてはピザを頬張る先輩が信じられなかった。きっと今の私は、ものすごく変な顔をしているだろう。
「それは、無理ですよ」
「だってよ、別れちまえば他人になるんだから悩まなくてもよくなるぜ?」
「そんなこと……!」
「嫌だって言うんなら、『しっとのほのお』が燃え上がるのを待つんだな」
昨日の作戦は失敗に終わったのだから、待っていても仕方がない。しかし、一縷の望みを捨てきれない自分もいた。ほんの一瞬でも、嫉妬心を抱いてくれていたのなら。私を好きだと自覚してくれるのなら。
「アオイ」
ふと、愛しい人に名前を呼ばれた気がして振り向く。そこには不機嫌そうな表情を浮かべたスグリが立っていた。え、なんで、この時間はポケモンを育てているはずじゃ?
「放課後、バトルさしよう。……エントランスのコートで待ってっから」
一方的にそれだけ言うと、さっと身を翻して食堂から出ていった。バトルの誘いは、もちろんチャンピオンの名にかけて受けて立つ。けれど、あの視線は少なくとも恋人に向けるものではなかった。そこから、これから先も私が欲しい言葉をもらえることはないのだと感じ取ってしまった。
「おーおー、効いてんねぇ」
先輩の言葉の意味はわからない。放課後なんて、来なければいいのに。
力なくコートに現れた私を、スグリはすでに待ちかねていたようだった。
「待ってた。悪りぃけど、バトルの前に来てほしいところさあんだ。着いてきて」
来てほしいところ? 疑問を差し挟む間もなく、スグリはエントランスの改札をくぐっていく。あわてて着いていった先は、スグリの部屋だった。
「あんま綺麗じゃねぇけど……入って」
ドアが静かにしまった途端、ぐいっと肩が引き寄せられた。気づいたときにはスグリの腕の中。
「んっ……!?」
かぷ、と唇にやわく噛みつかれる。予想だにしなかった行動に対する驚きと、スグリから触れてくれた嬉しさで目を白黒させていたら、唇の隙間から何かやわらかいものが入ってきた。それが舌だとわかった頃には、口内はすっかり味わい尽くされたあとだった。顔が離される刹那、スグリの瞳が揺れた気がした。
「はぁっ……いきなり、どうしたの」
「ごめん! 俺、どうしても抑えきれなくて……」
年頃の男の子だしエッチな欲が抑えられなくもなることがあるのかな、なんて素っ頓狂な発想は、次の一言で覆されることになる。
「昨日も、今日も、カキツバタと距離が近かったのがわや嫌だった!」
「……えっ、え? そう、なの?」
嫉妬をぶつけてくる言葉はまっすぐに心の奥深くに突き刺さって、耳朶が熱くなる。
「それなのに俺、全然彼氏らしくできてねぇから、怒る資格もねぇって思った」
それじゃあ、昨日の作戦は成功していたの? 眉を下げたスグリの顔は今にも泣きそうで、たまらず抱きしめる。
「もしかして……ちゃんと私を好きでいてくれてたの?」
「当たり前だべ! アオイが好き。わや好きだ。……言ったことなかったべな」
背中に腕が回って、強く抱きしめられる。私から一方的に抱きついたことはあったけれど、こうしてハグし合うのは、初めてだった。伝うあたたかさと鼓動が、触れ合っている実感を確かなものにする。だが、不安材料がすべて払拭されたわけではない。
「で、でも、忘れられない人がいるって言ってた」
「そんなの、アオイんことに決まってる! 林間学校で会ったときから、ずっと忘れらんねぇんだ」
身体がひしゃげてしまうんじゃないかと感じるほど、腕に力がこめられる。その痛みが今はうれしかった。
「ごめん、嫉妬するなんてみっともねぇのはわかってっけど、止めらんね」
「みっともなくなんかないよ! 私こそ、ごめん。無理やり告白をOKさせたようなものだったから、好かれてる自信がなくて……」
「これからはちゃんと、す、好きだって言うし、態度でも示す。彼氏らしく振る舞えるようにけっぱるから」
先輩の言うとおり、スグリは私のことをしっかり想ってくれていたんだ。それも、こんなに深く嫉妬までしてしまうほどに。その実感が胸にすとん、と落ちてきた瞬間、そこがじわりと温かくなって、心臓はペースを早める。
「ううん、そのままのスグリでいて?」
「でも、」
言いかけた唇に、そっと人差し指を当てる。金色の瞳がまんまるく見開かれたのち、すっと三日月のように歪む。甘い視線だけが交わって、どちらからともなく触れるだけのキスをした。
翌日、連れ立って部室に現れたスグリと私に、先輩がへらりと声をかける。
「その様子だと、作戦はうまくいったみたいだねぃ」
「作戦?」
「キョーダイがよ、スグリに好かれてるか不安だって言ってたからオイラがわざと、」
「わぁーっ! カキツバタ先輩、ストップストップ!」
手をぶんぶんと振って待ったをかければ、先輩はにやりといたずらっぽい笑みを浮かべた。こんなはかりごとをめぐらせていたと知ったらスグリは気分を悪くするだろうに、何を考えているの!
「……ふーん? つまり俺はカキツバタの手のひらの上だったんだな」
『ぜったいれいど』の声色に恐れをなして、横目でちらりとスグリの顔をうかがう。聞こえてきた響きとは裏腹の、優しくとろけた目に釘付けになる。
「なぁアオイ、もうカキツバタとしゃべらんでな?」
「えっ、そんなの部活の付き合いがある以上は無理、」
「な?」
私が首を縦に振るまで、何度も問答は繰り返されたのだった。